答えがないものの指導の可否について
インスタでとてもお気に入りの方と、同じ形式で文章を書いてしまいました。
恐縮です。
最近(?)、下記の米津さんのツイートに関する記事を読みました。
私自身も思うところがあったので、少し考えてみました。
横で、彼の「orion」が流れています。とてもよい曲です、大好きです。
https://twitter.com/hachi_08/status/1103250350952218624
芸術に関する指導とは?
単純に結論からいくと、米津さんの意見には賛成派ということになります。
話し合いをした訳ではないので、真意まで汲めているのかは謎ではありますが。
スキルの指導はできても、感性の指導は難しい
パースの取り方や、金属比率、または道具の使い方などは、教わることでメキメキ腕が上がったりしますよね。基本や応用はとても大切で、この部分に対する指導は得られるならあった方がいいかも、と思っています。
ただ、「好き」「きらい」で構成されている世界。
「美しい」「かっこいい」「きれい」…形容詞で形成されている分野は、そもそも、誰かに教わるということが可能なのか、わかりかねる感じです。
この”感性”と呼ばれるものを、自分の感性で上書きする。
これは相手の完成をフラットにしてしまう…ユニークさを殺すという危険な行為なような気がします。
みんな同じがいい、的な。
強烈な指導は遺恨を残す
私は幼いころから、どちらかといえば絵を描くことや文章をこさえることが得意で、周囲からそのことについてはポジティブな評価をもらっていました。
ただ、反面、批判も浴びやすい状況でもありました。
- 教師から、クラス全員の前で「自分の感性に合わない」という理由で作品をボロクソに否定された
- 美術の課題のポスターの構図をひたすら真似され続け、私がパクリ疑惑
- 完成した粘土細工をみんなと同じくロッカーの上に並べて置いたら、私の作品だけ翌朝に完全分解
…書いてたら、いじめみたいだと泣けてきました。
これ、小学5、6年の時のことなので、もっと学生時代を掘り出したら100項目いきそうな気がする…
昔から私は、気に入ってくれる人と、異物みたいに徹底的に排除してこようとする人の2極に評価が分かれる傾向がありました。
1人美術教師でとても仲良くして下さった方のときは、常に評価は「5」(最も良い)を頂いていました。
今でも、あの苦い思いははっきりと思い出すことができます。
そして、それが自分の中の糧になるか…全くなり得ません。
自分の至らなさや未熟さで受けた指導は、ありがたい糧になります。けれど、自分の感性で教室をフルフラットにしようとしたあの行為に、嫌悪感さえ、今も感じます。
みんな違って、みんないいということ
冒頭の文章に尽きる、です。
あなたの個性は、そのままでいい。
それを磨き上げたい、そのためのスキル向上や、尊敬する方の良さを取り入れていきたいと助言を仰ぐことは素晴らしいことだと思います。
もしかしたら、今、私が誰かにそういってもらいたいのかもしれません。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました!